お台場ボーダレス閉館・移転するって

サムネイルは teamlab 公式 より引用。

2018年に始まったお台場のチームラボボーダレスが閉館・移転になるので、よい節目かなと思って、いくばくか、このタイミングで吐いておこうかなと思いました。 ほぼ日記の殴り書きで「思う」が多く、根拠や着地のある話ではありません。

※この場での私の発言は私の所属する組織や団体の一切の意思や意図に拠るものではなく、公式のものでもないことに注意してください。 個人の発言と思考であって、それ以上のものでもありません。大多数の意見であると履き違いのないよう。

「恥ずかしくなったり」、内容に問題がありそうだなと思ったり、身近なところから指摘があった時は修正するなり非公開にします。

運営スタッフの皆様ありがとうございます

今年の 2 月頃、高齢の母やその友人らを連れてボーダレスに遊びに行きました。 70 も 80 も過ぎるような面々です。杖をつかないまでも、足の不自由な方を連れて案内していたのですが、 スタッフの方が暗がりの中その様子を見つけて、エレベーターを提案・案内してくださりました。

暗い演出の中で、人も多く行き交う中で、気の利いた対応をしてくださって、このスタッフと同じフィールドで仕事できてよかったと(一方的に)思いました。

膨大な数の人が訪れてくださったオープン当初から、コロナ化で運営に慎重にならなければならない状況まで、 運営面で苦労しなかったタイミングはほとんどなかったと思います。それがオペレーション的な立場であっても、接客面であってもです。

自分のように親切な接客対応を受けることができなかった方々も多くいるとは思うのですが、 無数のキャラクタが無数に訪れる施設で対応することが、困難なことであることは想像に難くないです。 十全はまずもってあり得ないでしょうし、心痛めたことも多くあると思います。いつも対応ありがとうございます。

※一般論に、接客対応がよくなかったことも当然あるとは思いますが、それは別の話だし、ここでするつもりはありません ※特に関係者であることをオープンにして訪れてもいません

接客を除いたって膨大な数のプロジェクタ、センサ、PC、オーディオ機器、ケーブル、etcが詰め込まれてるわけです。 稼動しなくなって精度の都合で不良品が混入する台数なのに、それが四六時中稼働するんだからトラブルは常にあって、その対応って途方もなく大変と思います。

(実際のところ、私が訪れたタイミングでも演出が止まっちゃってるものがあって、胃が痛くなりました。)

運営も含めた難しい問題

一般的な接客のそれとは違う面で、難しいなと思うことがいくらかありました。 大声で注意されて不快であった、走り回る子供がいて危なかった or 子供を注意されて不快であった、という趣旨のコメントが散見されたことです。

展示環境上、音が四方八方から鳴っているので「大声を出して急いで注意しなければいけないシーン」はいくらか止むを得ずあるんだろうなぁ、と。 作品を作る側の身から、そこの解決は非常に難しく、しかし仮にガチガチに約束事で固めてしまうのもどうなのだ、という。

改めて、これは公式の見解ではなく、一個人としての考え方であるので、重ねて履き違えが無いようにして頂きたいのですが、 子供が走り回って転んで怪我するの当たり前なんですよね。もちろん重大な事故に繋がらないようにケアはしなければならないんですが。

ところが「走り回って転んであなたたちの施設内で怪我をしました、どうしてくれるんだ」という話はどうしても上がってくるので、難しいなぁと。 走り回っても許されるような環境と展示が合わされば良いのだが、相当に難しい問題だなぁと。どこに着地させるでもないのですが、そんなことを思ってます。

「PVでは子供走っとるやんけ」という趣旨のコメント見たとき「そりゃそうだ」って正直思いました。

バイトルコラボよかった

オープン当初にバイトルとのコラボで高校生を無料招待していたことがありました。

次の世代を担う人たちに体験する機会を提供できるの、個人的にはすごくよいなと。 良いか悪いかはさておいて、若いうちに体験して、それがどうであるかを思う・考える機会があるというのは、 文化的な面の発展や貢献につながるんじゃないかって、すごくぼんやりしたことを思っています。具体的にどうとかはないです。

コメントに「料金が高い」というものがよくあるのも知っているんですが、 あれだけの設備を作り上げるために、投資し、運用し、さらに次を作り上げるだけの収益を上げることを考えれば、 どうあがいたって価格設定の面には限界があります。

高校生からは大人料金になってしまうところ、そこをカバーする形での無料招待コラボは、意味があったことを祈りたいです。 願わくば訪れてくださった次世代の人たちが、新しく面白い何かを生み出して欲しいし、それを体験できる機会があると嬉しい。

※高いと思うことに対する価値観を否定する意図はないです。 自分にしても、日常の中で、得られたものに対して価格が高いな、と思うことはあります。

集団制作は手法の1つに過ぎないのではなかろうか

ボーダレスに対する、ある種のポジティブな評価に対し、集団でやってることだから当たり前・ちょっと卑怯、 みたいな考え方があるのも知っているのですが、このやり方だからダメというものはないと思うんですよね。 枠組み考えなければ、映画なりゲームなりの制作とやってることはあんまり変わらない気がします。 「集団制作の強み」は今後も出せると良いのかなぁと。

一方でまぁ「単独のアーティストとして認められるべきなのかどうか定かでない、認められるべきではない」という話はすごく分るし、 事実アーティストであるという認識でいる人の方が少ないように見受けられるのですが、この話は自分の中でも着地点がないので割愛。 そもそも論が対外的な見え方や形式上の評価の仕方は兎も角、オフィシャルに単独のアーティストであるとは名乗ってなくて「art collective」としてますよね。たぶん。 (ブランディングというか広報系担当の方に適当なこと言うなと怒られそうだけど、非公式の場なのでご容赦、必要なら訂正は入れます)

見渡すと、自分を含めて、単独で高い制作物・成果を出力できる人ばかりではないと思っています。 もちろんズバ抜けてクリエイティブ能力の高い人もチラホラと在籍はされていますけども。 それで評価されるものが出力されるなら、やり方として否定されるものではないのではと。

翻って個人で戦えちゃうようなレベルの人が参入!ってなっても、この環境下でその能力が十全に発揮されるかどうかは分からない気もします。 いたらいたでめっちゃ活躍してもらう・その能力を活用する気もします。※そんな人が不要って言ってるわけじゃない、念のため、なんならいて欲しい。

類似する話題として、たまに採用の機会などでお話しすることがあるんですが、 自社内でサウンド、センサー、グラフィック、ネットワーク、建築、工作、ディレクション etc が疎通できるのが、 制作環境としては良いところかなーと思います。トライ&エラーのイテレーションが早いと思う。 最近さらに色んなポジションの方が増えてますし、ポジションに限らず経歴多様なところは面白いです。

「プロジェクションだけ」では戦えない

目新しさや商業的みたいな「安易な」観点から見ても、プロジェクションだけでは戦えない時代になっちゃったなぁという感覚があります。 それくらい普及してきました。これは自分の周囲にいる多くの人が感じてる気がします。

そして、そんな時代がゆえに「本当にその映像はプロジェクションで見るから良いのか、大きく見せることが良いのか、身体をそこにおいて見るべきものなのか」は、 "それ"を作るときに問うてもよい気がしています。

プロジェクションやインタラクション活用できるよいところの 1 つは、提供するものが「体験」になることだと思うのです。そこ見誤ると事故りそうだなぁという。 ディスプレイでよい、とか他の媒体で良い、にはならないで行きたい(重ねますが、これは個人の勝手な考えと都合を言ってます)。

そういう意味でも、ボーダレスをはじめとする昨今の常設展示は「体験」に重きを置いてるのが良かったなぁと。 インタラクションやスケールも含めて、プロジェクションでしかできなかったことでしょう。

作る側としたら実際に出して見てリアルスケールで体験するまで良し悪し見えないことが多く、 現場に出てから大変、みたいなところはあるんですが、作っていてそこも面白い。リスクもあるし腕の見せどころでもある。 入社当時は倉庫やマンションの空き部屋使って狭く狭くディスプレイ並べて実験したりしてたのが懐かしいです、水道契約してないからトラップ効かずに臭かった

ボーダレスにしても昨今の常設展示にしてもですが、作品だけではなく、プロジェクタのレイアウト、 物理空間の設計、サウンド、香り、素材選び、塗装、法的な問題の解決 etc、多くの人が「体験を設計」しています。 随所に設計の妙があるので、そういったところで「単にプロジェクションだけじゃない」を感じてもらえると、ちょっと嬉しい(私はそこにほとんど貢献してませんけど)。

もちろん、そんな綺麗ごとみたいな話だけじゃなく、目新しさが無くなることに対する恐怖感もあります。 個人的には、それは商業的な観点というより、同じことを続けることに対する進化や成長のなさから来るものとしてですが。 そしてなによりも、新しい作り方とか楽しそうじゃないですか。(生意気言うなと怒られそうですけど)

サウナのプロジェクトの時にチラホラと羨ましい、すごいとこぼしていたのですが、 物理的な工作や、自然現象、自然造形物と合わさった表現とかって形で、映像を出せるようになってくると、楽しそうだなと。 やれることの幅広げてみたいんですよね。自分がそれまで生き残れるかはともかくとして、自分がそこにいなくても見てみたい(あと何年生きられるんだかこの世界)。

話やや脱線させると 2016 年に初めて「Floating in the Falling Universe of Flowers」作ったとき、 隣に「人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング - Infinity」とかがあって、水の体験や質量あるものに勝てないわーってずっと思ってたんですよね。 (単に自分の絵作りとエンジニアリングの実力不足だったんだが)

念のため、同じ作品を継続して作り続けたり、色んな形で展示し続けること自体にも、それはそれで価値・意味があると思っています。どっかで書いた気もする。ここでは長くなるので割愛。

カオスをカオスのまま進化させる

ボーダレスのとこに「カオスをカオスのまま進化させる」って言葉が書いてあって、それは昔のオフィスにも書いてあったりして、どうやら山中俊治先生から頂いたもののようです。 事の経緯や真意や解釈について、私は知る由もないし、知ったところでどう、というものもなさそうなんですが、最近この言葉にちょっと思うことがあって、ボーダレスついでに殴り書いておこうかなと。

何と限らず「作る人」の大体がそうだとは思うんですが、なにかしら良い感じなものが出来上がったとして、それを分析して解析して記録して次につなげると思うんですよね。 自分(たち)にしても同じで、発見とか実験とか、そういったものを繰り返して積み重ねて継承し、次に生かすみたいなことを重要視しています(猪子さんもそう)。

が、やっぱり「感覚的に良い」「説明がつかないけど良い」「合理性でないけど良い」「理屈にかなわないけど良い」みたいなものが起こり得ちゃうじゃないですか。 自分も頭回すのが下手だったりするので、どうしてもそういうこと起こるんですよね。なんか知らんが上手くいった、ただやっぱりそれが良いし、価値がありそうという。

で、それらの言葉に出来ないこと = カオスなんかなぁと。逆に言うと言葉にできるものはカオスじゃなさそうだなぁと。

真意は分からないが、自分にとって「カオスをカオスのまま進化させる」は「継承できるもの = 言葉にできるもの = カオスじゃないもの」は積み上げちゃって、 そこにかかるコストは削るなりシステム化して対応するなりして、カオスな領域に余裕を持たせて、カオスをそのままにしたり、新しく生み出せるようにしたりすること、だなぁと、 そんなことを考えてたりします。

追:集団制作の弱点

そういえばと悪いところというか弱点というか欠点というか、そういうところも考えていたことを失念していたので追記しています。 というより自分がようやっと見えてきたなとそれだけの話なんですが、「集団が最大公約数的なところを目指して何か作ると、デオドラント化した無難なものが生まれる」は正しいなぁと、 数年たって自分もそう思えてきています。これ言葉選びも大変上手いですよね、改めて。※自分の書き連ねることと真意とは異なるかもしれませんが。

大変に野暮ではあることは分かった上で、振り返るため、ないし、かつての自分のように、よく分ってない誰かが見て何かを思うためにかみ砕いて言い換えておきたく。 「私はこうがいい-A」と「私はこうがいい-B」が衝突するときって、すり合わせが起こるんですよね。言い方悪くすれば、お互いの意見の妥協点を探り"がち"。

仮にある場面では A の案が採用されて、別の場面では B が採用されて、という形にしたって、トータルで見たら平滑化されるんですよね。 それが「最大公約数」。主張しあって削りあって尖りまくってが起こればいいんですが「集団」であるとき、それは起こりにくいです。どっちかというと丸まってく。

単独のアーティストであれば、この表現はちょっと過剰・過激かもしれない、とか、 もっと酷い言い方をすれば、世間でのウケが悪いかもしれない、みたいなところを「私はこう表現したい・私は好き」で乗り越えていけるんですよね。

ラボに限らず、集団制作だからって決して主張するものがないとか背景がないとか、そんなことはない(と思う)んですが、 一方で、制作の過程の内に平滑化される、というのはどうしても起こりる、平滑化された結果、尖ったものはなくなり"がち"(= 必ずしもそうでないとしてもの意)。

以下、まとまり切ってないです。

とかなんとか言いながら、映画やゲームならどうかとも思う。いくばくかのリーダーシップを取る監督なり脚本家なりの色が出れば、 それは尖ったものになる、とするなら、必ずしもこの問題は起こらないんですよね。

ただし、それらは集団・組織と呼ぶべき制作体制と異なり、そもそもが比較するべきではないというのもあると思いますが。 実際のところ、自視点でそれらよりは意見が取り入れられやすい環境にあると感じているし、それはそれで、よい面でもあるので、難しい話です。 必ずしも行き過ぎた平滑化が起こってるかというと、そんなこともないと思いますし。

規模にしか価値がないか、については未だ自分の中で実感がないんですが、可能性としては十分あり得るな、とも思ってます。 価値があるならそれはそれでやる理由になるし「体験」作るうえでは規模が重要になることもあると思うんですが、 一方で規模に面白さを見出すより、小さなギミックや気づき、みたいなことが好きな自分がいるので、 自分がどうありたいかは慎重になってもよいのかも。感覚バグってきてるのかもしれないけど、1部屋くらいのプロジェクションとか、長手の一面とかは全然好き。

あんま自分の中で反芻/消化できてないので、最後は追記全体で雑談地味ちゃってるんだけど、これもちょこっとメモしておきたく。 「インタラクション」にも弱点あって、特定の決まったディティールを作り切るのが難しい = 実質的に不可能で、まして広大なスペースに描画しようとすると、 描画処理性能の都合も出てきたりして、絵作りが縛られてるんじゃないかなぁ、とボンヤリ思ってます。 まだ全然反芻してないので、そのうち別の機会にまた殴り書こうと思います。