私は未だわからない

大層なタイトルをつけてはいますが、結果的には日記、ただの思考の吐き出しです。

重要な前置き

前置きとして、いくつか断りを入れておく必要がある。

(1) 一切の内容は自分の現在・過去・将来にわたって所属する組織・団体に一切のかかわりがなく、意見や思想を代表するものでないことを明記しておきます。 当然のことではあるのだが、わざわざこんなことを書かなければいけない時代になっている。

(2) 話の趣旨は、自分の思考整理・思考実験です。過去にこういうことを考えていた、という記録を取っておくことにも重要な価値があると考えている。

(3) 人は矛盾を抱えているもので、明確な定義が存在する必要はないと思う。自分にだってもちろん矛盾がある。

(4) 殴り書いているので文体を整理する気はないです。

(5) この場やこの内容について議論したい気持ちはないです。ただ自分の思考を整理したいし、興味がある人に覗いてほしい気持ちしかない。

アートが何かわからないとダメか?

3年前に「アートとは何かがわからない」と書いたことがある。結果的に内容の一部を取り下げた。2018 年のことだ。 身近にいる人の一部から「分からないとか立場上、書いてはいけない」と諭された。

当時は鬱を患っていたし、客観的に見て話題性があった時期なので、問題になったら面倒だな、と思考停止に取り下げた。 が、実際のところ、この考え方は良くなかったと今にして思う。

結果的に、炎上しなかったので、取り下げる、という行為そのものは良かったのかもしれないし、 若気(若くはないが)の至りによる暴走を食い止めてくれた可能性も十二分にある。

一方で私にとって窮屈な体験だったに違いないと今にして思う。なお組織的に止められたものではなく、 また多くの同じような立場の人から「自分も分からない」「いい内容だった」と声をかけられたことも明記しておく。

重ねて書いておくのは、決して強制されたわけではないし、当時の選択が窮屈であっても、今の後悔につながらない、正解であったかもしれない。 ただ自分が意見を受け入れた、それだけのこと。

煽りととらえられがち

私は自分自身に自信がない性格をしているので、相手の反応を過剰に気にする性格がある。 よってエゴサするし、そこから面白い見解や納得のいく批評、感想なども多く見かけて利を得ているつもり。

以降にいくらかそういったものへの自分の思いや見解を書いていくのだけれど、 批"判"的なものへ納得がいって、例えばいいねリアクションをすると煽りと捉えられガチなので、こういった場で書くようにした。

客観的に煽りに見えるのは至極当然なので、まぁ仕方ないか、しかもこれは自分や身の回りにマイナスになるから、 そういったところで対話を試みたりリアクションをすることを辞めてしまった。

「好き・嫌い」のコメントが好き

今時点での私は「好き・嫌い」くらいの方が批評というか感想として率直で好き。下手な理由をつけるよりも評価という面で純度が高いとすら思う。

あと好き嫌いは「Not For Me」のスタンスがあるように思えて、そういうところも好き。

単に私の頭が悪いだけかもしれない。

自分が所属する組織の作品だからって、全部が全部好きなわけではないし、もちろん自分の作品にだってもっとこうしたかった、というのはある。

それは製作時間や予算の都合という意味ももちろんあるが、幸いなことに、繰り返し積み重ねていくことができるのがいいところなので、そこは問題にならない。

どちらかというと、組織として制作する以上、個人のエゴや尖り主張が平滑化して丸められることがある、という点のことを指している。

一方でそれは、自分視点から得られない気づきも得られる可能性があるので、一長一短なんだけど。

少し話がそれた。

商業主義はアートではない

「商業主義だからアートでない」というコメントを見たことがある。"なんとなく" 気持ちはわからないではない。

気持ちがわからなくない、というのは「あんなやり方で稼いでいてズルい」みたいな気持ちが、アート分野以外で自分にも心当たりがあるから。

ただ職としてのアートはいわゆる昔の宗教絵画の頃でもそういう文化があったはずで、歴史的にアートによってお金を稼いでいる、という事実があるので、なんとなく的を得ていない気はしている。

そもそも作品を売っている人たちは沢山いるわけで、おおよそお金に換えることを理由にアートかどうかを区分できるかというとそうではないと思う。

「金など関係なしに、自分の主張を表に出すという行為が尊いのだ、純度高いのだ」という主張はなんとなく分かる。 が、アートであるかどうかは関係なさそう。そこにあるのは「好き・嫌い」でしょうきっと。

そこに教育的、プロパガンダ的であるかは兎も角として、主張があるから商業とアートは切り離されているのだ、という主張も見えてくるが、 それであれば、その主張が受け入れられるか、伝わるかどうかは別として、私の所属する組織ではそれを多く公表する機会に恵まれている気がする。

あと、もし本当に金のためにやって、成功し、沢山稼げてるなら、私や周りの人の生活は、もう少し豊かだと思う。

繰り返しになるけど、いわゆる昔の宗教絵画の頃でもそういう文化があったはずで、プロパガンダ的に、宗教不況的に扱われた作品の中にも、 一般的に「アート」って呼ばれている作品はあるよね、と思う。

いや、これも言いたいことは分かる。ある作品にかかる歴史的文脈を理解できる人たちが、そういう人たちだけが、正しく作品を理解できるのだ、という文化とか、あるように私には見えている。 何によって新しい価値観を提供しているのか、みたいなものが理解できる必要がある、みたいな。

しかしそれだと「理解できないものはアートではない」「新しい価値を提供できないものはアートではない」みたいな定義にも思う。果たしてそうかは疑問である。

仮にそうだとして、文脈は理解できないが、それを見た人が、自身の中に新しい何かや考え方みたいなものを見出せるなら、その人の中ではアートの定義に相当しそうでない? まぁそうなると別に料理でも体験でもアートと言えるみたいな切り口が生まれてはしまうんだけど、この文脈で考えるのはこの変でやめておく。

デジタルだからアートではない

好き嫌い、の話はすごい分かる。一方で石やらで書かれた壁画から始まって、絵の具に変わったりしているわけで、媒体の変遷は過去にもある。あんまりしっくりこない、もちろん個々の自由ではある。

ちなみに私が知る限りメディアアートと名乗ることってたぶんなくてデジタルアートと名乗っているはずである(過去には違ったかもしれないが)

主義・主張・背景がないからアートではない

これに関してもよく見かける言及であるが、そんなに他と比べて"そういったものが"ないようには感じていない。

そもそも論からして作品の横にその作品について懇切丁寧に語られている展示会ばかりでないことは、例えばアート文脈の人も知っているはずで、 であれば、作品の横にそれらが提示されている必要はないと思う。

おそらくそのような展示会では事前にバックグラウンドを調査するなりしていると思うし、であれば背景がない、とは言い難いんじゃないかと。 むしろ多分だけど鬱陶しいくらいに主張していて、例えばボーダーレスであるとか、超主観空間 / Ultrasubjective Space とか。組織的にどういうことをしているとか。 下手に生い立ちの情報くらいしかない作家のそれよりも多くの情報が掲載されているはずである。

類似するものに、歴史がない、というコメントもよく見るが、これは少しわかる。つまりアートとは文脈を大事にするべきである、 という主義の人たちが、過去を継承していない作品体系について、それはアートではない、という主張の仕方。文脈がなければアートは成立しない、という主張とセットでのこの批判はまっとうに成立しそう。

あと前提として「主張がないものはアートでない」が成立する必要があるのだが、これが真であるのか、私は分からん。

エンターテイメント・娯楽ではないか

この指摘をする人のアートとエンタメとの境が分からないので、何とも言えない。 一般に人を喜ばせるものを娯楽というのであれば、いわゆるアート作品の中にエンタメ要素が含まれていることを否定できない気がする。

喜ばせるというか、恐怖を演出するものだってあるわけなので、単に楽しい明るいだけがエンタメではないと思われる。 して、それについてはアートにも同じことがいえよう。

なんとなしに、区分で言えば、エンタメはアートを内包するような気さえするが、これを言うと一緒にするなと怒られそうな気はしている。 つまり、アートはより高尚なものでエンタメとは異なる、という主張の人が、エンタメであるという指摘をしているのだと思う。

否定するかのように入っていったが、この指摘は合っているような気もしていて、つまり、アートもエンタメのくくりに入るが、 あなたたちの作品はエンタメではあってもアートではない、もっと他のものです、という指摘。 しかし現存する言葉に相当するものがないので、エンタメであるともっと大きなくくりで評される、みたいな話。ありえそう。

もしそうであるなら、アートであると主張するなら、もっとこうあるべきだ、みたいな話や評が出ると、 建設的なんだけど、不思議とそういう前向きなものは聞かないし見ないな。勿体ないなぁ。

コンテンツです、っていのも類似してみるんだけど、定義はともかく通俗的な意味で、エンタメの枠組みの中に「コンテンツ」というものがあり、 アートではなく、そちらに区分されるべきでは?という主張だと思う。こちらもありえそうではある。 通俗的にアートはコンテンツではない、という主張でもあるわけだ。

しかしそうなると、通俗的な意味では映画も音楽もコンテンツの枠組みに収まっている気がするが、映画や音楽ではなくコンテンツであるという指摘なら、 「コンテンツ>>映画・音楽」か「コンテンツ>映画・音楽・」っていう区分の仕方が必要になりそうで、どっちで、なんていう区分なんだ、ということが明らかになっていった方が"すっきり"するなぁ

自然の方が好き

誤解されがちにはあるが、作品の中で自然を否定したことはないように思う。なんだったら再度焦点を当てる役割を担っている気がしている。 自然以外の屋外の対象物すべてに言えることではある。

地元の人が当たり前のようにしてきたもののよさとか、再度確認できたとか、(執筆時現在の情勢はともかく)他所から見に来てよさを知る、ということに貢献できているなら価値はあるのかなぁと。

一方で明るい光を夜間当てるのは植物や微小生物に悪影響であるというコメントも見たことがあり、そちらについては、可能性もあるのかなと思った。 屋外常設で当て続けることは(私が知る限り)ないのだが、果たしてどうなんだろう。専門家の見解を聞きたいが、 この手のコメントを出している人たちは極めて少数でしかも具体的な根拠が示されていないので、建設的な議論もできそうになかったことだけを記憶している。

まぁ飛んで火にいる夏の虫というくらいには夜間のライトが誘蛾灯よろしく効果を発揮するのは知っている、 なんだったら私も和歌山の片田舎を自身の故郷であると言い張る程度には自然が好きな人間だ。深刻なら話を聞いてみたい(結果私がどうこうできる話でもないけど)。

商業主義の話にもつながるが、結果として良さが見直されたり集客によって補修や運営に予算が付く可能性があるならやる価値はあるのかなとも思う。

もっとゆっくり見たい

分かる。他者の存在を肯定的にする見せ方みたいなコンセプトは1つの好きなところではあるが、それにしても、もうちょい絞れたらな、と思うことはある。 システムで解決していけるならそれが一番いいと思っている。

ただ、すべての運用・運営しているわけではないから、そこにいる人たちに分かってないことをと思われるかもしれないけど、 運用の都合上、費用の都合上とかで、やむを得ない、みたいなところはあると思う。

一方で頂いている価格を上げれば体験できる、見てもらえる機会もレンジも減ってしまう、難しい話。

集団で作っていて卑怯である

同じ組織内でもたまに聞く。気持ちは分かる。人数をかけてお金をかけて展開すれば、少なくとも目につきやすい位置に持っていくことができる。 多くの人に見られやすいということは、(もちろん悪い方にもだが)評価を得やすいという側面があるので。

今の組織として作品を作ったとき、自分自身をアーティストと思ったことは正直にいってないし、そういう人も多いと思う。

※便宜上、人に何をしてるのか、端的に伝えるためにそういった趣旨で話をしたことはあるが もちろん、そう考える人がいたっていい。

一方で、全員で何かを作るスタンスを否定するつもりはあまりない。それでしか成し得らないものもあると思う。 私は個としての力が弱いから特に。

独立して作品を作ってる人とか、個人で戦ってる人をかっこいいとも思う。

し、組織に所属して作ってる間はせめて組織で作ることを卑怯とあまり言いたくない気持ちはある。 組織に助けられている側面がありながら、それを否定するのが、個人的にあんまり好きじゃないというか。

余談だが、最近になって社内発表作品で好きな作品は何かとベテランの方に聞いたことがある、深夜作業のタクシー帰りでのことだ。 特に思いつかないといった回答だった、結構この回答に考えさせられるものがあった。

お前たちの組織に矛盾はないか

無論あると思う。ただそれが悪いこととは思わない。変化の過程でどちらがよいとか傾きかけてるのかもしれないし、 そもそも矛盾が存在してるのが人なわけで。たぶん冒頭にも断りを入れているはず。

たとえば「言葉で説明できるものはクソ」と言いつつ、普段の作品作りでは継承できるものは積極的に継承していくスタンスである。

良いものは積極的に使っていこうぜ、時間をかけてよくしていったものを破棄するより、その積み重ねの上にあるものの方が、良いものができるよねっていうスタンス。なるほど合理的。

ところが継承できるもの、継承しやすいものは言葉で説明できるものなわけで。矛盾に思う。

いや実際のところ、これらは両立して矛盾しなくて、継承できるよいところは継承し、そこにかかる(時間的か金銭的)コストを抑えて、言葉で説明できないところにもっと注力していこうぜっていう。

まぁ言葉ってある種のフレーミングの分けで、ここではいくつかアートとは何かみたいな定義をつらつら書いてるけど、そもそもそれ自体はあんまり重要じゃないとも思ったりする。 なんか適当に言葉を吐いているので軽いが。

こうやって書いてるうちに整理されてきて、なんでそんな一生懸命になってアートであることを否定されるんだろうっていうことに疑問を思ってこれを書いているのかもしれないな。 思考の整理は大事だ。

しかしそもそもアートの枠組みを大事にしてきた人たちから、それと外れる存在がいきなりアートですって名乗られると「それは勝手にすればいいんだけど、 従来のアートってこういうものだからね」みたいな主張をしたくもなるし、大衆に誤解されたくない、ということなのかもしれない。※これはアートかそうでないかみたいな話に関わらず存在するよね

いやアートって言葉の枠組みって誰が決めるのか?みたいな話ではあるんだけど、それを主張することを止めることもまた野暮なわけで、

そうやってバチバチに戦いながら進化していくのも良いんじゃなかろうか、

お前は自分たちのこと好きすぎじゃないのか

客観的に見てそうとらえられるように批評に対して反論をぶつけるような形が多くなった。

が、自分から見て好みでない作品ももちろん沢山あるし、なんであれば自分が担当したところも、もうちょっと(個人的には)こうしたいな、がたくさんある。 それで歯がゆい思いもしている。しかし組織で作品作るというのはそういうことなので。

あと、好き嫌いの感情とは別に、NotForMe、好みでない、が働くことは多い。嫌いに近いニュアンスなのかもしれない。

つまり、すげぇことやってるし、自分にかかる問題がないので嫌いではないが、許容できるし、いつかそれが自分にとって重要になったり価値をもたらすかもしれない、みたいなレイヤーがある。

エンジニア的な視点から、少しでも客観視できているところもあると思いたい。

最後に

もし、また問題があったら、今回も取り下げたり非公開にする可能性は大いにあり得る。どうか虐めないでほしい。

しかし「アートとは何か」を分からないなりに考えている、という発言を私の立場から発信することが、そんなにダメなことか?

アートはアートを知った人たちだけが語るべきだ、という文化が一部にあるのは知っている"つもり"。

これに対してだって「知ったかぶってんじゃねぇ」という思いを持つ人がいるだろう、きっと敬意や配慮が足りてない、みたいな話になんだと思うのだけれど。

もしやっぱりそういった様な世界で、今後もそうあり続けるのが良しとされるのなら、まぁ多分自分はそこにいるべきでないんだろうなぁ、形だけでも。

ちなみに内容の薄さペラさはなるべくしてなっていて、つまり、まったくそういうものを積み上げてきてない人間が話す内容って、 当たり障りのない誰が話しても受け取り方がほとんど変わりない内容になるか、 あるいは要点を絞れていなく、要点に情報量がつぎ込まれていないのである、そういう発言や文は薄く見えがち。